問題を飢え死にさせ、機会に餌を与える ピーター・F・ドラッカー

初めまして。4月からボルドー大学に留学しています、中島 孝です。1年間よろしくお願いします。皆さんとの情報共有、自分の軌跡録と自省録もかねて、徒然に上梓したいと思います。
「留学の目的は?」―SUNRISE YIAから、このお題を頂戴するまでは、この質問に対する答えはおろか、この質問すら私の脳裏にはありませんでした。留学の目的-この質問はとても巧妙です。なぜなら、①留学する目的、②留学中の目的、③留学後の目的、これら全てての質問を網羅しているからです。これら全ての質問に対する解答を探らなければなりません。とりあえず、①留学する目的。留学は、自制できない欲求として私のDNAに刻まれていたようです。井の中の蛙という言葉がぴったりの、岐阜から出たことのない自分に対する劣等感もありました。電気生理学の知識的・手技的な礎を作った2年間の国内留学で感じた広い世界と小さい自分という俯瞰体験をもう一度したいという思いもありました。「お前の世界を創作するために、情熱とアイデアを、まざまざと人の眼に見せつけなさい。可能であれば海外で」、というメンターの箴言も影響しているのかもしれません。明言は難しく「物心ついたら留学したいと思っていた」、というのが正直なところです。②留学中の目的。人並みの表現になってしまいますが、勉強する、努力する、としか今は言えません。抽象的で具体性に欠けますが、1本でも多くの論文を書く、といったところでしょうか。そのためには、与えられたテーマとは別に自分でもテーマを探さなければなりません。留学生活に慣れていく中で新たな目的、目的の具現化や多様化が生じると期待もしていますが、考えが甘いとお叱りがあるかもしれません。③留学後の目的。今の私には考えられません。考える余裕もありません。しかし考えなければならないことだけは自覚しています。
留学する上での一番の関門は何でしょうか? 経済的なことでも、上司の理解でも、家族の理解でもないでしょう。留学先を探すのが最初のかつ最大のハードルではないでしょうか。ところが私の場合、幸い?簡単に?留学先は見つかりました。
私「I want to study at your university.」
ボス「OK. When?」
私「・・I’m not sure・・・」
ボス「When you decide, let me know.」

私が、留学先のボスとやりとりした会話はこれだけでした。これは、その時の写真です。はや5年前です。招聘されたauthorityを困らせてやろう、という若気の至りで話しかけた、というのが本音です。電気生理学のデの字も知らない若造に「留学したい」などと言われたら、世界的権威は困るに違いない。武勇伝を作るために話しかけたのです。ところが予想に反して、「留学はいつからだ?」と聞き返されてしまったのです。私は思いがけない展開に口ごもってしまったのですが、そんな私を見かねてか、「決まったら連絡してくれ」と言って名詞をくれました。後述する問題や心配事に対して解決策を見い出せず、優柔不断で時だけが過ぎ、毎年のように「留学は来年にしたい」と先延ばしのお願いをしてきましたが、ボスもその都度快く(?)了承してくれました。この時の口約束は5年後の現在も有効だったようで、今回留学するに至りました。若気の至りでやった悪戯が思わぬ結果につながったようです。余談ですが、ボスはこの写真を覚えていたようで掲載許可も得ました。
この5年間はとても長かったです。留学する上で問題がない人はいません。医局との関係、家族のこと、経済的なこと。問題は人それぞれで、深度も質も異なるでしょうが、誰もが自分の抱える問題が最も大きいと思うはずです。私の場合は、問題の解決というよりは、機会に焦点を充てることで、現実逃避と正当化を図った、といったところでしょうか。関わる人々―患者さん、職場の人々(上司も後輩も)、家族―は、年齢とともに増えていきます。ゆえに、自分のアクションが波及する人々も、インパクトも年をとればとるほど必然的に大きくなります。ゆえに留学で生じる迷惑や問題も必然的に経年的に大きくなります。しかし、ということは今が生じる迷惑や問題が一番小さくて済むはずです(詭弁かもしれませんが)。そう自分に言い聞かせました。応援してくれる人々への感謝を胸に、留学という未知との遭遇で得られる成長に焦点を当て、一方で帰国後は一生恩返しをするつもりで(留学後の目的の一つでしょうか)、家族のために生涯を捧げると、終身刑に服する契りを妻と交わし、留学を実行した次第です。
話は変わりますが、告白します。私は内縁です。というのは、私は今現在ボルドー大学にいます。看護師さんもドクターも業者さんも、皆快活に私と話をしてくれます。一応仕事(?)もしています。アブレーション時のラボ操作と症例のデータ入力程度ですが。しかし私には、これを上梓している今現在、大学発行の受入協定書(Convention d’accueil)がないのです。これがないとVISA申請がそもそもできません。ゆえにVISAもないです。遡ること渡仏10か月前から、グラントの取得に奔走し、日本での犯罪歴証明の取得や、医師免許、学位、推薦状のフランス語への法定翻訳をこなしながら、こんなものがあるのかと知見が広がったことに陶酔しながら、この受入協定書(Convention d’accueil)獲得のため、先方の秘書とメールで格闘しました。年が明けても音沙汰なく、日本人の催促は催促に非ず、という朗報を耳にして、片言のフランス語と英語を武器に電話で週1回催促するも、4度目の電話で挙句に居留守となりました(渡仏後に確認しましたが、居留守で間違いありませんでした)。そして終に3月を迎え、VISA申請・取得たる婚姻届けを出すに至らず、渡仏したのです。留学たるものが、法律もシステムも異なる国を超えてのやり取りゆえ、所定の手続きを経ねばならないわけですが、私にはその所定の書類、すなわち受入協定書(Convention d’accueil)がないのです。無論パスポートで可能な範囲でやりくりしているので不法滞在などではないし、何の問題もありません。先方も受入協定書発行は大学事務方の問題だ、我々の知るところではない、気にするな、とにかく待て、仕事頑張ろう、というザ・フランス・スタイル(?)です。そうはいってもこの書類がないので、内縁の心境で肩身が狭いです。早く書類を取得して、VISAを取得して、晴れて正妻になって仕事をしたいと切に願う、今日この頃です。諸先輩方は、「そんなのは序章に過ぎない。俺の苦労に比べたら甘い」と、私の大苦労についても冷ややかです。「苦労話や失敗談は、ワインのつまみになり、ワインの味を引き立ててくれる」、そのようにも慰めてくれました。ボルドーにいる私への気遣いで、「酒のつまみ」と言わず、「ワインのつまみ」だそうです。
このかねての宿望を果たすためには、道中の何物にも構ってなどいられない。道すがら吠えてくる野良犬に構っていたら目的地につかないのと同じだ。そう自分に言い聞かせ、私は、気持ちの収拾のつかぬまま、家族を残して渡仏しました。空港まで見送りに来てくれた妻と娘。空港行きのバスの中ですでに、「早く(妻の実家に)帰りたい!!」と愚図る娘のしかめっ面は、この先長い(はず?)の旅路の行く末を暗示しているのでしょうか。

t_nakashima
t_nakashima
中島 孝(Bordaeux, France)