『人生は一度きり,不惑からの留学事始』

1) 留学の動機について
2002年に大学を卒業し,2年間の研修医生活の後,専門分野として循環器内科を選択した.関連病院でインターベンション治療を中心に循環器内科医としての研修を続けた.特に急性期治療にやりがいを感じ,没頭する毎日であった.そのような日々において,留学を考える最初のきっかけとなったのは海外学会への参加だった.確かアメリカのニューオーリンズで開催された国際学会だったと記憶している.自分とそれほど歳の変わらない海外の医師達が,日々の臨床を自信に満ちた態度で発表し,それに対して多くの参加者が建設的なディスカッションを行なっている姿に,強い感銘を受けた.文字通り世界を感じることが出来た最初の経験であった.翌年以降も機会があれば海外学会へ参加するようになり,自身でも拙い英語で発表を行うようになった.座長やフロアからの質問が理解できないことも何度かあったが,それでも参加・発表を続けた.海外学会で様々な経験をすることで,日々の日常臨床に従事していても,常に世界に思いを馳せるように心掛けるようになったと思う.次の転機は,卒後6年目くらいだったと記憶している.臨床経験を積み重ね,様々な治療がこなせるようになるのと反比例し,日常臨床が忙しくなり海外学会への参加が難しくなっていった.一方で,当時は東京都内に勤務しており,他施設の循環器内科医と知り合う機会が増えていった.同じような志を持つ仲間と意気投合し,定期的に症例検討会を開催するようになった.歳の近い仲間とのディスカッションは,大いに刺激になりお互いに切磋琢磨できたと思う.第2の転機はまさにこの時期であった.仲間のうち何人かが,海外の施設へ留学をするようになったのだ.海外への意識が再び強くなり,再度海外学会へ参加するよう努力するようになった.しかし,この当時は自分自身が留学することになるとは全く考えておらず,仲間が留学する姿を見つつ,どこか自分とはかけ離れた世界だと感じていた.再び参加するようになった海外学会で,留学中の仲間と再会し,時には施設の見学もさせてもらった.自分の良く知っている仲間が,多くの苦難を乗り越えて,海外施設で実際に働いている姿を見るうちに,これまでは別世界と感じていた海外留学というものを身近に感じるようになり,いつか自分も,という気持ちが徐々に大きくなっていった.また,海外留学をする友人たちが,皆,以前より尊敬し,一種憧れのようなものを感じていた人間ばかりであったということも,大きな理由の一つになっていたと思う.経済的問題,医局人事の問題,家族の問題,帰国後の職場の問題など,一筋縄では解決できない様々な問題があることは認識していたが,海外留学への気持ちは,気が付くと抑えきれないほどになっていた.この時期にはすでに卒後10年が経過し,年齢的にも30歳代の後半となっていたが,一度きりの人生だからということで,ついに留学することを決意する.しかしながら,この後,大きな障壁が立ちはだかることになる.

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(写真1)Institut Cardiovasculaire Paris Sud見学時に,林田健太郎先生と.


2) 留学先が見つからない!
海外留学を決心したものの,留学先の当ては全くなかった.自分でいろいろと考えては見たが,さっぱり思いつかず,とりあえず,留学経験者の先輩や友人たちに訪ねて回ることにした.その中で,最も多かったのが,基礎医学研究の留学も含めてだが,所属大学からの紹介であった.また,すでに日本人がいる施設へ,交代枠として留学するパターンもあった.他には,少数ではあるが,海外施設の責任者に直談判したケースもあった.一方で,この様に留学経験者と話をするうちに,『どこに留学するか』と同時に,『何を学ぶのか』という事も重要であると強く感じた.『何を学ぶのか』という問いに対しては『何を学んできたのか』を明らかにする必要があると考え,まずは,自分の循環器内科医としての生い立ちを思い返してみることとした.PCIを中心とした冠動脈治療からスタートし,その後,下肢血管や頸動脈を含む末梢動脈治療も学んで来た.その中で,諸外国(特にEU加盟国)と比較して日本で認可されているデバイスが少ないことや新規デバイスの認可が遅いこと(いわゆるデバイスラグ)を実感していた.また,当時は,大動脈弁狭窄症に対する経皮的弁置換術が注目され始めた時期であり,今後,structure heart disease (SHD)に対するインターベンション治療の発展が大きく期待を集めていた.そこで,留学先の条件としては,(1)これまで自分が身に付けてきたことを生かしつつ,(2)今後日本で認可されるであろう,生体吸収性ステントやデバルキングデバイス,そしてSHD治療が学べる,そういった施設が理想的であると判断した.まずは,所属大学の医局へ相談に行ったところ,親身に相談に乗っていただいたが,最終的には私の希望する様な留学先施設を紹介することは難しいということであった.その後,先輩・後輩問わず,留学経験者にも相談したが,タイミングの問題などもあり,すぐに受け入れてくれる施設は見つからなかった.留学と言っても,当然自分を受け入れてくれる施設がなければ始まらない.当初は,だいたい1年くらいあれば,留学先が見つかるのではないかという認識だったが,あっという間に2年が過ぎてしまった.当然その間も日常臨床を行なっており,正直気持ちが折れかけたことが何度もあった.しかし,応援してくれる友人達にも後押しされ,コネがないのであれば自分で作るしかない,という考えに達した.それからは,まさに就職活動と呼ぶべき活動を開始する.国内学会では招待されている海外医師を紹介してもらい留学の可能性を相談し,海外学会ではセッション終了後にお目当ての医師が部屋から出てくるのを待ち,声をかけた.後者に関しては,相手の医師にとってみると,面識のない怪しい東洋人がいきなり声をかけてきて,自己紹介から会話を初めて,『フェローとして雇って欲しい』『給料は出なくても検討する』という話になるわけなので,どれだけの医師が話を聞いてくれるのか心配だった.しかし意外にも,ほとんどの医師が足を止めてこちらの話に耳を傾けてくれた.合計で10人程の医師と話をすることができ,その多くは最後まで話を聞いてくれた後に,メールアドレスの交換をしてくれた.当初は,メール送信後,期待に胸を膨らませて返事を待っていたが,ほとんどのケースで返信はなく,打ちひしがれる事が多かった.失意の中,再び気持ちを盛り上げて,声をかけ続ける作業は,時に辛いものでもあった.そんな中,ついに最後の転機が訪れる.2015年フランス(パリ)で開催されたeuroPCRで声をかけた1人の医師が,非常に興味を持ってくれたのだ.
(写真2)会場では話が盛り上がっても,メール返信の無い毎日・・・.

(写真2)会場では話が盛り上がっても,メール返信の無い毎日・・・.


(写真3)興味を持ってくれたBernhard Reimers医師

(写真3)興味を持ってくれたBernhard Reimers医師


3) 『ミラノ』じゃなくて『ミラノ』です
その医師の名は,ベルナルド・ライマース(Bernhard Reimers).学会プログラムで確認すると,所属施設は,『ミラノ総合病院』となっていた.イタリアのミラノということで,セリエAの本田選手や長友選手が頭に浮かんだ.確か,頸動脈ステントのセッションで座長をしていた会場へ赴き,終了後に声をかけたと記憶している.ちなみに,どのような基準で海外の医師に声を掛けていたかということを少し説明しておく.基本的には学会のプログラムを見て,自分の専門分野やSHDに関連するセッションで座長やコメンテーターをしている医師を対象とした.その上で,どのような論文を発表しているか確認して,最終的にはセッションでのコメントや発言の仕方を観察して決めていた.実際に,ライマース医師に声をかけたのも,PubMedでCASやPCIに関する論文を発表しているのを確認し,セッションでのコメントがユーモアに溢れているだけでなく,発表者への思いやりが感じられたからである.普段通り会場の出口付近で捕まえて,『Excuse me, do you have time?』で戦闘開始である.ライマース医師は,ひととおり話を聞いてくれた後,一言,『It’s very interesting』と言い,近くの椅子を勧めてくれた.その上で,『これまでどのような循環器研修を行ってきたのか?』『これから一番やりたいことは何か?』『家族はいるのか?』など,逆にいろいろな質問をしてくれた.最後に,『基本的にウエルカムだ.今年の9月にうちの病院が主催するライブデモンストレーションがあるから,その時期に一度見学においで』と言ってくれた.これまでにない好感触で,本当に嬉しかったことをよく覚えている.『ライブの会場はどこですか?』と聞くと,『水の都ヴェネチアだよ.観光もできるぞ!』とのことであった.この時点では,ミラノとは少し離れているな~くらいにしか思っていなかったが,その後詳しく調べたところ,ライマース医師が所属する病院は,なんと『ミラノ(Milano)』ではなく『ミラノ(Mirano)』であった.Milanoは,ミラノ・コレレクション知られる,北部イタリアの最大の都市であるが,Miranoは,水の都ヴェネチア近郊にある小さな町であった.それでもとにかく,9月のライブデモンストレーションに合わせて,見学に行くことにした.その間,さらにライマース医師について詳しく調べていたところ,意外にも日本とのつながりがあることが判明した.毎年渋谷で行われる学会(TOPIC)の海外ファカルティーであり,Miranoから渋谷へライブ中継を行なっていた.また,9月のライブデモンストレーションはTOBIという名前で,冠動脈のCTOと分岐部病変の治療に焦点を絞って開催されていた.この会にゲストオペレーターとして毎年日本人医師が招待されていたのだ.実際にこの時期にあわせて,1週間ほど滞在して病院見学を行った.病院があるMiranoは非常に小さな町であったが,病院の雰囲気は非常によく,カテーテル室のスタッフも優秀であった.TAVIやLAAおよびPFO閉鎖術など,SHDの新しい治療を行なっているだけでなく,PCIやPTAについても,しっかりとストラテジーを考えた上で治療を行なっている点も気に入った.最終的に,ライマース医師と面談をし,無給ではあるがフェローとして迎え入れてくれることになった.その面談で印象的だったのが,ライマース医師の部屋に飾ってある大きなポスターだった.そこにはあのスタジオジブリの人気キャラクターとなりのトトロが,『ようこそ!』と言わんばかりに大きな口を開けて笑っていた.
(写真4)Milano(ミラノ)とMirano(ミラノ)

(写真4)Milano(ミラノ)とMirano(ミラノ)


(写真5)ライブ参加時に,以前のフェロー達と.

(写真5)ライブ参加時に,以前のフェロー達と.


(写真6)Reimers医師の部屋に飾られていたトトロのポスター

(写真6)Reimers医師の部屋に飾られていたトトロのポスター

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梅本 朋幸(Italy)