Unpredictable

2020年5月末、ロックダウン(都市封鎖)から2ヶ月半が経過したここサンフランシスコで、記念すべき第1回Sunriseレポートの執筆を行っています。このような歴史的コロナ禍でのレポーターは、後にも先にも本年のメンバーだけであって欲しいと願っています。ですので、コロナ禍のアメリカで、どのような生活を送っているかをレポートすることも、大切な使命の一つであると(勝手に)思っています。
私達家族(妻、3歳、1歳の子供)は2月中旬にサンフランシスコへの移住を開始、3月1日から意気揚々とUCSFでのラボ生活を開始しました。当時のサンフランシスコは、COVID-19問題は遠い東アジア諸国での出来事と誰もが認識しており、コロナから逃れられて“You are a lucky guy.”とからかわれることもありました。街を歩いても予防的マスクをしている人は皆無で、逆に感染源と誤解されるためマスクはつけない方が良いとさえ言われました。ところが、間も無く状況は一変、3月16日 サンフランシスコでは全米に先駆けてロックダウンが発令され、街は一瞬にしてゴーストタウンと化しました。街のいたるところに張り紙がなされ(写真1)、最低限の散歩と買い物以外は外出禁止、外出時にも6 feet (約2メートル) 他人と距離を置くことが徹底されました。当たり前に通えたはずの近所のスーパーも、入場制限と6 feetルールにより長蛇の列となり(写真2)、入場に1時間半かかることもありました。誰もがcrazyになりそうな状況下で(写真 3)、ラボでの過ごし方はおろか、生活のセットアップも整わないまま外出禁止を余儀なくされた私達家族は、戸惑い、混乱、緊張、恐怖、孤独、襲ってくる様々な感情の中で、自分達を必死に保とうと努めました。そのような生活も2ヶ月が経過し、ようやくロックダウンなりの生活スタイルが確立されてきました。次回のレポート時には、少しでも好転した状況をお伝えできればと願っています。
さて、ここから本題に入りたいと思います。晴れて留学が決まり無事に開始されるまでには、多くの障壁をクリアしなくてはなりません。留学先の選択、留学先の受け入れ状況、職場の人事、家庭の事情、ビザ取得、資金面、全ての条件が整うことで、初めて留学は成立します。これまで留学された先輩方にお話を伺うと、皆さん律速段階となった壁がそれぞれ異なっていらっしゃいました。
私自身が、最も越えるのに苦労した壁は、“留学先の選択”でした。留学先は様々な形で決定します。医局内でのバトンリレー、勉強したいテーマに基づき自らapplyする、あるいはボスとの素敵な出会いがきっかけになる場合など。私の場合、2年半前に職場で初めて留学の機会のお話を頂きました。更には、留学先はどこでも好きなことを勉強して来て良いという“自由”まで頂きました。“自由”、明確なビジョンを持っている方にとってこれほど恵まれた環境はないかと思います。しかし、当時の私は漠然と“留学をしたい”と内に秘めていたものの、具体的な準備ができておらず、“自由”という言葉に苦しむこととなりました。
研究テーマは、臨床研究か、動物実験か、あるいは思い切って基礎研究なのか?留学施設に求めるものは、“最新テクノロジー”、“超名門”、 それとも“スーパースターの存在”なのか?そもそも留学の目的、成功とは何なのか?できる限りの業績を上げることなのか、世界中に人脈を作ることなのか、英語でdiscussionできるようになることなのか、あるいは家族とのかけがえのない時間を作ることなのか?さらには、自分の特徴や強みは何か、将来どうなりたいのかに至るまで、ひたすら自問自答する長い日々が始まりました。留学された多くの先輩方に連絡しお話を伺い、また留学関連のセミナーにも積極的に参加し、日々気づいたことや得た情報を自分なりにまとめていきました。しかし、考えれば考える程に、“留学は人生の分岐点”と思う様になり、決断に臆病になる自分がいました。周りで留学先が決まったと言うニュースを聞く度に、焦りや不安が積み重なりました。本当にこんな状態で自分は留学できるのだろうか?留学が遠い別次元の世界に思え、忙しい臨床にかまけて現実から目を背けた日々もありました。
その様な日々が1年続いた頃、一つのbreakthroughが起こりました。それはアメリカで活躍する尊敬する循環器医との対談の機会です。その医師は、10年以上前にアメリカに留学をし、自らの力だけで道を切り開かれ、現在もアメリカで医師としても研究者としても活躍されています。その先生は留学開始された当時を振り返り、「まさか10年後にこの様な姿になっていることは当時全く想像すらしていなかった。流れるままに辿り着いたところで、何が出来るかをただただ必死に考える。名門でない、最新テクノロジーが整っていない、など置かれた環境のせいにしてはいけない。」とおっしゃっていました。
そして私はようやく気づきました。自分を苦しめていたのは、全て“計算”だったのだと。将来を計算し、留学成功という正解を選ぼうとするから、決断に臆病になっていたのです。将来のことなんて誰にも予測出来ません。だからこそ、今できることは“選んだ道を正解にしていける様、置かれた環境で必死に頑張ること”だけなのだと。そんな一見、当たり前の様なことにようやく気づくことができました。
そこから留学先は “将来”を見据えて選ぶのではなく、純粋に今“勉強したい”と思うことを、物差しとして決める様にしました。
晴れて留学先が決まった後も、留学施設のボスやラボの秘書と連絡が取れなかったり、留学先施設からのofficial letterがなかなか届かなかったりと、数多の壁が立ちはだかりましたが、どうにかこうにか一つ一つ乗り越え今日に至ります。
留学開始から2ヶ月、外出禁止を余儀なくされ、思い描いていた形とは程遠いスタートとなってしまいました。数ヶ月前、世界が今の様な状況になることを、予測できた人はおそらく誰もいなかったかと思います。この先のことも全く予測できません。だからこそ、先を案じるよりも今の自分に何が出来るのか、必死に考えたいと思います。

写真 1. 張り紙

写真 1. 張り紙


写真 2. スーパーの行列

写真 2. スーパーの行列


写真 3. 近所で見つけたCrazy meter

写真 3. 近所で見つけたCrazy meter


写真 4. 近所の山から見下ろしたサンフランシスコの街並み

写真 4. 近所の山から見下ろしたサンフランシスコの街並み

s_higuchi
s_higuchi
樋口 諭(San Francisco, USA)