すぐには役に立たない知識をたくさん身につける時期を

今回は「世界から見つめ直す日本の医療」というテーマを頂いております。

私の現在の主戦場は基礎研究ですので、世界から見つめ直す日本の「医師(MD)による基礎研究」というよう話題でお話してみようと思います。米国の医学部でのキャリアパスと基礎研究との関わり方をみて感じたこと、日本もこうなればいいなあと思ったこと、日本のこういうところはなかなか良い、というようなことを綴っていきたいと思います。

<基礎研究で業績を作って医学部進学を目指す米国型>

御存知の通り、米国では高校卒業後の進路として医学部(メディカルスクール)に入ることはできません。4年間大学に通い学士を取得し、MCATなどの試験を経てメディカルスクールに入り、さらに4年間学ぶ、という最短でも8年の高等教育を受ける必要があります。

そしてメディカルスクールの研究室には、ボランティアとして実験に参加したり、テックとして働いたりしながらメディカルスクール入学を目指す学部生や学士の若者が出入りしています。私の所属するラボでも、学部生の男の子やテックの女の子がほぼ毎日研究室に来て実験をしています。彼らは皆20そこそこ、といった年齢ですが、なんとか自分の実験結果を論文のFigureとして使ってもらい、メディカルスクール入学に必要な業績にしようと貪欲に実験をしています。さらに、基礎研究を通じて得た知識はMCATやUSMLEでハイスコアを狙うためにも役に立つため、座学の方も積極的に取り組んでおり、実験の待ち時間でも教科書を読んだりしています。

つまり米国の学生は、学部生の頃から基礎研究に参加する明確なモチベーションと当事者意識があります。これは日本とは大きく異なる点です。

とは言え、メディカルスクールを卒業しMDを取得した後も基礎研究を続け、PhDを取る、というキャリアパスは決してメジャーではなく、多くが臨床家としてのスペシャリストを目指していく、ということになります。米国の感覚では、MDの仕事を中断して基礎研究をやるというのは順番が逆、という印象を受けるようで、臨床的課題を肌で意識した基礎研究者というのは少ない土壌といえます。もちろんこれはMDというキャリアから見た感覚であり、当然ながらPhDから研究の主役である主催研究者(PrincipaI Investigator)を目指す人材が世界から集まってきますから、このことが特に国全体のバランスが悪くしているという印象もないのですが。

<臨床を経験してから基礎研究に関わる日本型>

翻って日本の医学部ですが、基礎の研究室と学部生の関わりはここまで強くないという印象を受けます。大学によっては卒業するまでほとんどピペットを扱うことがないカリキュラムの大学もあるようです。私の出身大学では3年生の後期に基礎研究室への配属があり、半年間の成果を発表する機会がありましたので比較的研究に触れる機会はあったほうのようですが、それでも米国の学生ほどの当事者意識を持って研究に参加していたとは言えません。1-3年生の基礎医学教育の段階ではなんとなく試験に通り、4年生終了時のCBTをきっかけに臨床医になるためのスイッチがようやく入るというのが一般的ではないかと思います。

次に基礎研究に参加する機会としては、国家試験に通り、臨床研修を終え、専門医としてある程度の経験を積んだ後、大学院に入学した時点となります。これは決して悪くないタイミングだと思います。なぜなら臨床で酸いも甘いも一通り経験し、どのようなニーズが有るかを肌で感じているからです。

実際に米国に来て研究室のDiscussionに参加して感じたことは、「現場感覚」で話をするとけっこうウケが良いということです。ヒトのサンプルを使用した実験結果に対し、この数値はどちらとも言えない値だ、とか、この心電図変化はこういうことが起きている可能性がある、とか、そういう経験知的なものは意外と役に立っています。また、研究の方向性を決める際に、こっちのほうが面白そう、という鼻も効くのではないかと密かに思っています。

<日本式キャリアでは学生の基礎医学へのモチベーションが生まれにくい>

このように、2つの国のシステムはまったく違いますが、どっちがいいかと聞かれるとけっこう困ります。基礎研究は手を動かす人間が必要なので、医師免許をエサに研究させるか、学位をエサに大学院生に研究をさせるか、労働力の捻出先が違うだけなのではないか、という気もしてきます。収入という点で言えば日本式のほうが比較的早期に収入が得られる分、基礎研究に携わる選択の博打感が少ない一方、米国でうまくキャリアを積み上げて専門医になれれば日本の勤務医の3-4倍以上の収入が得られることをモチベーションにすることだって悪いことではないと思います。

また、医学部で受けることができる教育の質、という点で比較してみても、”臨床”の教育についてはアメリカに一日の長があるとはいえ、日本の先人たちの努力によって臨床教育のシステムが輸入され、かなり改善している印象を受けます。特に臨床実習から初期研修にかけての教育システムはかなり体系化され、教育ができる人材も増え、時代を経るごとに良いものになっていくという期待が持てると思っています。

一方で、今回比較することで見えてきた日本式キャリアの改善点は、「医学部1-3年生で学ぶ基礎的な内容」なのではないかと思います。

臨床現場での治療方針が一般化すればするほど、基礎医学を意識する機会は減っていきます。実際に基礎医学の知識がなくても、ガイドラインに準拠した診断ができ、適切な治療方針を選択し、現場でコミュニケーションができれば何とかなってしまう場合がほとんどではないでしょうか。しかし、ガイドラインに当てはめることができないケースでは、背景にある基礎医学への知識が必要になる場面はあるでしょう。そして何より、ガイドラインを作る側、すなわち研究によってエビデンスを新しく開墾していくためには、基礎的な知識が新しいアイデアをもたらす土壌になります。日本の生命科学研究における競争力の低下が叫ばれて久しい昨今、この土壌を作る時期である医学部1-3年生での過ごし方が、自分のことを振り返ってみても、緩い、というのが日本の改善点と言えるのではないかと思います。

<役に立つのかわからない知識を学ぶ時期として>

日本式キャリアの中で、基礎医学の扱いがなんとなく軽くなってしまっている理由はいくつかあると思います。大学生活を満喫したい比較的自由に過ごせる時期のカリキュラムであること、単位さえ取れれば過ぎ去っていくものであること、国家試験での基礎医学の問題が出る割合はかなり低いこと、内容が複雑な割にはどのように役に立つかイメージにしくいこと…etc.

思えば、基礎医学に限らず、歴史、文学、地学、数学といった、すぐに役に立つわけではない知識、いわゆる教養と呼ばれるものが大学での比重が低いのは、米国の大学と比較した際の日本の大学の特徴かもしれません。学士の時点で教養を身に着けた米国の学生にとっては医学部が職業訓練校としての役割があればそれで良いのかも知れません。しかし高校を卒業して直接医学部に入る日本だからこそ、そういった基礎部分を豊かにするような試みが必要だと感じます。

しかしながら、大学側が力を入れてみたところで、学生側がついてきてくれるかは話が別になりそうです。基礎・教養の講義の内容を面白くしたとしても、単位を与える与えないだけの話では今までと何も変わらないと思います。学生の本能に寄り添いつつ、モチベーションを惹起する必要があるでしょう。それは自らのキャリアに関わる評価だったり、基礎知識の必要性を強烈に印象づける体験であったりするでしょう。

かつて賛否両論の中で導入されたCBT前後の雰囲気を見てきた世代として、日本の医学生はハードルとモチベーションを与えれば、しっかり乗り越えるだけの能力を持っていると感じています。また、学生の時点から英語を話せるように努力できたり、時代の風を読みプログラミングを学ぶなど、役に立ちそうなことへの嗅覚もとても鋭いと思います。ただ、わかりやすいスキルのみでは、行き着く先は猛者たちがしのぎを削る戦場です。そこに喜びや快適さを見いだせる人は良いと思いますが、多くの人にとってはそうではないと思います。すぐには役に立つのかわからない知識をたくさん身につけ、それを背景に得意分野をプラスして、自分なりのアイデアを開拓することが、これからの我々の生きる道なのかな、という気がしています。そんなわけで、大学生活の前半も、彼らの人生の糧となるような基礎知識を構築するような時期にしてほしい、と心から願っています。(が、最近の学生たちを見ていると、先達がこんな余計なことを思わなくても、勝手に大きく巣立っていくような、気もしています)。

<まとめ>

日米の医学教育の比較、という観点から、将来の研究力の向上のために、医学部における基礎医学・教養の教育を強化していく必要性を提案をしてみました。このような試みには一つの大学だけでなく、大学間の協力、民間へのアウトソーシング、さらには国レベルで動く必要さえある案件だと思います。次世代を育てるひとりひとりが大局観を持ち、教育に携わっていきたいものです。

 

図1. Kids are alright?

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原 昭壽(Hawaii, USA)